炎のストッパー津田恒美の記事一覧

今季の広島東洋カープは、「神がかっている」という「神ってる勝利」を重ね、リーグ中盤から一気に加速、2位以下のチームに圧倒的な大差をつけリーグ優勝を果たしました。

2016y10m14d_180037150シーズン前に「広島カープ優勝」と予想した評論家は皆無で殆どは「Bクラス」予想でした。大黒柱前田健太が抜けたのですから無理もありません。

しかしちょうどダルビッシュ有が抜けた日本ハムが優勝したように、投手陣をまとめてきた黒田博樹、今季2000本安打の偉業を成し遂げた新井貴浩、若手のホープ鈴木誠也を中心にチームがまとまり、実に25年ぶりのリーグ優勝を果たしたのです。野球は一人でやっているのではないとつくづく感じました。

若手投手では、野村祐輔投手が25試合に登板して16勝3敗で最多勝利投手となる好成績を挙げています。

他にも大瀬良大地投手、福井優也投手も来シーズンの活躍が期待されています。

◎今もカープ投手に夢を託す津田プレート

2016y10m14d_180858206広島の投手は、登板する前に必ずさわっていくものがあります。初代の広島市民球場には、その 功績と人柄を讃え「直球勝負 笑顔と闘志を忘れないために」の文章が浮き彫りにされたメモリアルプレート(津田プレート)が設置されていました。
現在、このプレートは2009年に開場した広島の新本拠地MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島に移設されています。

「弱気は最大の敵」25年前にリーグ優勝したときに【炎のストッパー】と呼ばれ、     32歳の若さで脳腫瘍の為逝去した津田恒美投手の言葉です。夏の甲子園で打たれたソロ本塁打で0−1と惜敗して以来の座右の銘です。直球勝負をせず、カーブでかわそうとしたボールを本塁打されたことを悔やんでの教訓でした。

 

多くの野球ファンが 津田恒実という人間を亡くなって20年以上も忘れないでいるのは、マウンド上で飛び跳ねるような躍動感あふれる豪快なピッチングと「気が優しくて、プレッシャーに弱い」自分と常に戦っていた津田投手の姿が忘れられないのだと思っています。

闘病中最後まで、ボールを離さなかったという津田投手の「もう一度なげたかった」という夢はかなうことはありませんが、時に弱気になるかもしれないカープの投手をプレートから励まし続けているのだと思います。

 

◎野球殿堂入り

在籍10年で49勝41敗90セーブと特別に目立つ成績ではありませんでしたが、2012年に   野球殿堂入りしました。現役中に病死したという伝説的なイメージで選出されたという感もありますが、野球界に残した功績は大きいと評価されたのだと思います。

◎津田恒美メモリアルスタジアム

2016y10m14d_195224682山口県周南市の野球場に           (津田恒美メモリアルスタジアム:通称津田スタ)という名称がつけられました。この球場は、津田投手が高校時代にプレーした場所として知られ、津田プレートのレプリカや津田投手の記念品も展示されています。

 

津田スタから将来プロ野球で闘志あふれるプレーを見せる選手が誕生するかもしれません。

◎南陽工業・周南市和田中学校の記念碑

津田投手の出身校である南陽工業和田中学校に記念碑等が設置されています。

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津田投手は生前奥様の晃代さんに

「わしゃみんなに忘れられんような野球選手になることができるかのう」とよく訪ねていたそうです。「25年たってもあなたのピッチングを忘れた人なんていませんよ」と奥様は答えているのだと思います。

炎のストッパー津田恒美

広島カープのリーグ優勝のシーズンオフ、津田選手は球団を退団することになります。   発表された病名は「水頭症」でした。まさかそれから2年もたたないうちに逝去してしまうなんて考えもしませんでした。

♦【炎のストッパー】津田恒美:広島カープ退団

当時新聞を読んで、わたしばかりでなく多くのファンが「まだ若いからきっと完治したらきっとカムバックしてくれるはず」と儚い夢を見ていたのではないでしょうか。        退団を通告された津田は、「給料はいらないから1日でも長くカープの選手でいたかった」と号泣したそうです。山本浩二監督も「わしの力たらずですまん」謝罪されました。

その後津田選手(以下敬称略)は、広島の病院から福岡の済生会病院に転院し、晃代さんの献身的な代替治療をうけました。自然素材のよもぎを使って足シップなどするのですが、   日常の看病と息子大毅さんの世話もしなければならないので、当時の晃代さんはいつ寝たのかと思わせる生活を何か月も送っていました。

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そして、これだけ長期入院になると看病ばかりでなく、入院費用の負担も重くなってきます。

ナインはリーグ優勝賞金の一部や日本シリーズの一部を津田のために。数年間しか在籍していなかった社会人野球でお世話になった協和発酵社員の方からも、少なくない見舞金がたびたび寄せられたそうです。多くの人から愛されていた選手であったことがわかります。

 

津田がなくなったあと、広島ナインを始め津田を知る人は声をそろえて、「あんなにみんなに好かれた奴はいなかった」「一緒に練習しょう」「一緒に走らせてくれ」とみんな津田といっしょに行動したがったと言われています。

🍀幼くして亡くなる子ども

話が少し横道にそれるのですが、小林正観さん(故人)の本に書かれていました。

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正観さんは、10年くらいの間に幼くして子供を亡くした母親300人くらいに出会って    同じ質問したそうです。

「自分たちの子供とはとても思えないほどに、

  • 姿がよいかわいい子ではありませんでしたか?
  • とても頭のよい利発な子供ではなかったですか?
  • とても性格がよくて素直な子供ではなかったですか?

300人が300人とも全員同じ答えをしました。                     「本当にすごい子でした。素晴らしい子でした。だから失ってからすごくつらいのです。」

正観さん曰く。人間は、人間として10万回生まれ変わりますが、幼くして亡くなるのは既に 9万9千9百回生まれ変わったレベルの子供なのです。つまりもう少しで神になる存在。

300人が300人とも「本当にそういう子でした」と答えた事実を覚えておいてください。  結論としては、「神に近い人は早世する」ということになっているようです。

スピリチュアルな話ですが、津田選手の早世をこの子供にあてはめてみると、       みんなに好かれていたということに納得がいくのです。

もちろんご家族は、そんな綺麗ごとより少しでも長く生きて欲しいと思われるのが当然です。しかし、死が逃れられないものだったとしたら、早くに亡くなったことを良い方に捉えて乗り越えていく方が故人も喜んでくれるのではないでしょうか。

👉小林正観さんの公式ホームページ

★津田恒美奇跡の回復と『最後のストライク』

2016y09m27d_234045836話を元に戻します。晃代さんの献身的な看病や復帰したいという津田の強い意欲によって、   津田は驚異的な回復をみせ、ついに退院することができたのです。

ひどい状態の津田を知っている人たちにとっては、まさに奇跡だったことでしょう。福岡市内に家を借りて親子3人での生活が戻ってきました。少しずつですが、スポーツジムにも通いはじめ体力もみるみる回復していったのでした。

晃代さんが、この人は「本当にもう一度マウンドにたって投げることができるのでは?」と 考えはじめた矢先、再び腫瘍が大きくなり始め再度入院することになってしまいました。

以前と同じように献身的に代替治療を続ける晃代さんの努力もむなしく、日に日に衰弱していく津田でした。亡くなる直前に大親友だった「森脇選手(元オリックス監督)」と二人だけの時間をつくった晃代さんの気遣いに涙なしではいられません。

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森脇選手が広島カープに在籍していた頃晃代さんが嫉妬するほど、津田と森脇選手は仲がよかったそうです。健在でいれば右腕として間違いなくオリックスの投手コーチでした。

津田は、オールスター第一戦が行われている日に亡くなり、訃報はまたたくまに日本全国の野球ファンに伝えられました。現役時代、時々コントロールを乱すことがあった津田ですが。

最後の日は、野球ファンが最も注目するオールスターの日を選んで去っていったのでした。

晃代さんの想った津田が投げた『最後のストライク』でした。

 

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スポーツ, 炎のストッパー津田恒美

★津田恒美【炎のストッパー】最後の登板

 

津田恒美(以下敬称略)と晃代さんの

幸せな新婚生活も長くは続きませんでした。

最優秀救援投手のタイトルを獲得した翌年は

スランプで成績が低下したので、

来季こそはと意気込んで練習に励む津田でしたが

、病魔はキャンプから現れていました。

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秋季キャンプの頃から、休んでいても足がだるくて眠れないと

しきりに訴えていたそうです。

また、キャンプではボールを顔面に受けてしまい

あわや大事になるところでした。

 

ボールを顔面に受けた後「わしも年かのう」

と津田は苦笑していましたが、

脳腫瘍の影響が少しずつ現れてきていたのでしょう。

 

しかし病院嫌いだった津田は晃代さんがいくら薦めても、

診察に行こうとはしませんでした。

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スポーツ, 炎のストッパー津田恒美

 

いつも管理人の本棚にあった晃代さんの手記『最後のストライク』より

★津田恒美と奥様晃代さんのなれそめ

 

皆さんマウンド上の津田投手を思い浮かべて、

奥様とのなれそめも直球勝負と想像されるかもしれません。

確かに直球には間違いないのですが・・・・・

九州出身で山口の女子大生だった晃代さんが、

夏休みで帰郷したとき所属していた運動部から

アルバイトの人数が足りないからと連絡が入り、

急遽山口に帰りパーテイのコンパニオンをしたときに、

津田選手がみそめたのです。

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